「本当のことを相手に伝えるときは、言葉を選ばないとね」
多分、人間の価値観というのは、それそれで、大きく違う。だから此処で言う「本当のこと」という物自体が相手にとってはそうではない場合もあるし、当たってるだけに辛い場合もあるだろう。
自分は正しいと過剰に信じこむと、相手に対して配慮を欠いた発言になってしまうので気をつけようと思う。
まあ、本当のことを言ったからといって、それを相手が受け入れてくれるかどうかは、その時次第だし、その内容が相手のコンプレックスに抵触して心を閉ざしてしまう場合も多々ある。
要は言い方なんだろうが、あまり湾曲に言っても伝わらないし、だからといって逃げ場をなくすような言い方ではだめだろう。このへんのバランスは学習するしかない。
言葉は難しい。言葉の意味が同じように思えても受け取る人で違う場合があるからだ。
「わからないものはわからないのでいいのだ」
先日友人から以下のような相談を受けた。「少し前から身の回りに
的中した予感で、本人は逆に不安を感じていた。「なぜ?今回の件
この世界では、この様なことが案外ちょくちょく起きている。それ
しかし、周りを見回してみると偶然では片付けられない事がたくさ
例えば、地球自体が偶然的確率論では存在し得ない。
大気の組成や、海の塩分量の変化がこの数十億年規模でほとんど変
大気科学者の J.E.ラブロックは、その著書「地球生命圏」で
要は、我々が知っている事実というのは、全体のほんの一欠片に過
その上で、様々な可能性が展開している。だとしたら、「予感が当
個人的には、その可能性は大きいと思っている。
そこで、重要なのは、我々が知っている、不十分な知識を元に不可
映画「地獄の黙示録」の中でカーツ大佐は「恐怖を友にしろ」と言
「結果にはとらわれないという考え方」
例えば何かの相談を受ける。もちろんできるだけ誠実に答える。し
だから、自分の言ったことを相手が理解できても理解でなくても、
重要なのは、そんな場合に、嘘ではなく、自分の言葉で自分の信じ
たまには相手に受け入れる準備があって、それによって物事が好転
また、伝えるべき内容が相手にとって都合の悪いことである場合も
その場を繕っても、自分の中に後悔が残る。そんな間違いを、例え
しかし、いくら自己弁護しても、そこで放った本心でない言葉は、
焦りは禁物
「物事を成就させるためには焦りが禁物」
どうも、私自身は毎日高いテンションで動いているので、性急なタイプと思われがちだがそうでもない。やりたいことは沢山あるが、実はあまり執着はない。できても出来なくても構わない。
その割には色んなことが出来ている。そこでナンデかな?って思っ
でも良く考えてみると、多分普通の人よりも叶うまでに時間がかか
今回の展示会にしても球体を作ると決めて展示会までに1年半位か
結局、やりたいことを実現させるために必要なのは、その方向性、
だから、少し時間は掛かるが緩めに、しかもぶれずに意識を持って
さよなら原発映画祭 in トークライブ 「311後、東京から福岡に移住して」 杉田かおる(俳優)
さよなら原発映画祭 in 熊本 正木ゆう子(俳人)× OTO(音楽家
7月3日(日曜日)大塚愛(福島県双葉郡川内村の自給自足の大工、避難者」 トーク:「福島から避難してきて」
7月2日(土曜日) 坂口恭平(建築家)× OTO(音楽家) トーク:「ゼロセンターの活動」 音楽:MOUTHPEACE
ソウルメイトについて
先日、能力者の方から以下のような事を言われた。
「浅川さんのソウルメイト見えたわ。やっぱり変わってる。あなたのソウルメイトって、人じゃないわよ。地球そのものがあなたのソウルメイトなのよ。そんな人はじめて会ったわね。」
私には、ソウルメイトというのはよく分からない。元々の考え方からすると、人間の命というものは元々同じエネルギーが一定の期間、海の波の様に、波立ち「波」という形を保持している間、一定の個性を持って居ると思ってる。
従って、その波の形状というかあり方が似通る場合、生変りであると認識される。
そんな感じで捉えてる。その波は勿論様々形状をしていて、エネルギーの強さも様々、それが人間以外の動物や植物に宿ることで「生命」が存在している。と、そんな流れだ。
そう捉えると、一定の形状のソウルメイトというのは、存在するのかも知れないけど、結局は皆同じエネルギーの一部だと思う。
つまりは全ての命あるものはソウルメイトであるということだ。
つい私たちは、私たちの立場で私たちの利益を考えてしまうが、それはもう独善的な視点以外何ものでも無いだろう。
例えば害虫と呼ばれる虫たちを私たちが殺生することは、その虫たちの立場に立てば、とんでもない悪であり、人間にとっては、必要な善であるが、これら相対的に変化する価値を理解して行為を行う必要がある。
当然、我々はキリスト教においても罪深い存在であると言われているし、仏教的に言っても、四苦八苦の中に存在していてそれほどおめでたい存在であるとは認識されていない。
私たちは、生きているだけでその存在に問題を抱えているということになる。
しかし、この世界はすでにパーフェクトでもある。そして人間もその世界の一部だ。
要は、判断自体の主体を何処に置くかに過ぎない。
相反する価値基準がこの世では同時に成立する。それって、結局私自身がその中から何を選ぶか?という事に繋がり、さらにはこれら多重に存在する価値観を選ぶ自由も与えれれているということになる。
もし、世の中が絶対的な価値観で決めることが出来るとしたら?あなたはその世界に住んでみたいと思いますか?
全ては結論づけられ、進む道も決定しているなら、我々は「個」として存在出来ると思いますか?
私はそうはおもいませんね。
遠くはなれていても
九州に住んでいると、福島原発の問題にしても、どこか現実感がなくて、テレビで悲惨な状況を見てもどこか距離感がある。それでもなお、巻さんのチャリティーライブを手伝ったり、UAさんの脱原発に関するネットライブを手伝ったりと、否応なくそれらが現実であることを知らされる。
そして今度は、「さよなら原発」というムーブメントを告知するためのウェブサイトを製作することと成った。
今回の事故は日本すべてを巻き込んで、今一度これまでの私たちの歴史を省みるチャンスだとも思う。これらの出来事に距離感を感じている原因は結局、想像力の欠如他ならない。
想像力の欠如は、つまりは、私を含め、私たちの未来を台無しにしてしまう可能性を持っている。
いや、それだけではないだろう。人間にとって想像力を失うということは、即、滅亡へと向かう事だ。
これまで、私自身も原子力発電に対して、明確なスタンスを持っていなかったが、今回の事故により、リスクをコントロール出来ない事業をやってはいけないという簡単な事実がよく理解できた。進むも勇気、止めるも勇気。
脱原発に向けて私も動きます。


