中学生の頃、物事は多面的に存在しているので、「良い」とか「悪い」とか絶対的評価というのは存在しないという事を考えていた。
だから、皆が良しとするものでも、逆の評価に成る場合が必ずあるので、そちら側から考えるとどうなるのか?ということが気に成って仕方なかった。
これはまぁ、単に集団と折り合いの悪い子供の自己正当化であって、ひねくれていたといえばひねくれていた訳だ。
しかしながら、歳をとった今であってもこの考え方は基本的に変わっていない。
それはタオイズム的な「陰極まって陽となり、陽極まって陰となる」というような風にも通じるし、それ以上に極まることがなくてもそこにはすでに多面的な在り様が在るといえるだろう。
すなわち、物事に対してその多面性のどの面を捉えられるかで、物事自体の存在価値や、自己の在り様まで変わるということになる。
何かの問題が起きたがそれを「問題」ととらえるのか「勉強の機会」と捉えるかで、現実自体が変化していく。
そう考えると、「選択」するということは「決断する」と同じように重要な意味を持っている。先に選択が存在し決断が結果として行われる。そこに自ら注視すれば、結果はおのずと見えてくる。
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